2011年09月07日

授業改善推進のために思うこと(3)

さて、前回書きかけた続きです。
図工美術に携わる者が今どういう現状になっているのかを「想定」するのに、展覧会の審査の場で考えられることを挙げてみたいと思います。
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作品の審査会なんかに行かせてもらうと、色々な学校の色々な取り組みが見れます。
そのような場で、
「私は、授業でこんな作品を生徒に作らせました」的な作品に出会うことは多いです。

前々回の記事ならば「そんなんではダメだろう」という事になります。

それでもたいていの審査の場ではOKになっちゃいます。
審査員の質が悪いから?いえいえ、そうではありません。

それ以下の作品が余りに多いからです。

前者の場合は教師主導かも知れないけど、熱意は伝わるし学習目標も予想できる。
指導が入ることによって生徒も何らかの力を付けている。
生徒の奔放な喜びや内発的な表現衝動は感じられないかも知れないが少なくとも生徒の「悲しみ」や「あきらめ」が感じられる作品ではないということです。

つまり「それ以下の作品」(という言い方は不適切ですが)というのは、
何のためにその授業をしているのかわからない放任的な作品であったり
学びや指導が感じられなくて、その授業を受けている生徒の気持ちに立てば悲しくなってくるような作品で、これならもう「たとえS式とかK式の描画指導法であっても、そっちの方がマシやん」と思えるような場合です。

( 今日も性格が悪いぞ>自分 )

もちろん展覧会を批判したいわけではありません。
現状の図工美術教育界をどんな風に「想定するか」の材料です。

■研究会では「こんな作品を生徒に作らせました」的な、「教師の作品を生徒にやらせているような授業ではダメだろう」という視点が少しずつですが理解されるようになってきた・・・という現状。

■熱心さの裏返しとして好意的に受け止められる作品もあるが、それでも教師主導の実践や作品主義が無くなったわけではないのが残念ではある・・・という現状。

■もはや授業ですらないのかも、という作品が意外なほど多い・・・という現状。

子どもの作品からこの3段階が見えてきた、というのが私の私見です。
現状の図工美術教育界をこんな風に想定しているというわけです。

次回はまた別の切り口で見渡してみたいと思います。


posted by kazyhazy at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 切り口 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月06日

授業改善推進のために思うこと(2)

研究会で教材や作品の事ばかり語られる時代があって…
(今でも多くの研究会がそうなんですが…)

近年「子ども」にスポットがあたり、「学び」について語られる様になりつつある。
(自分も含めて、まだまだ発展途上ですが)

それをもう一歩進めて次に来るべきは、図工美術教育者ではないか?
図工美術に携わる者が今どういう現状になっているのかという「想定」ではないか。
…という話が前回でした。

これはもう「聖域」と言って良い部分かも知れませんね。
自分のことが研究対象になったようで、書いててドキドキします。

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よく指導案を書くときに「生徒観」というのが書かれることが多いです。
本校の生徒はこういう地域に育ち……という傾向にある。美術に関してはこういう活動をしてきたが、…の所が課題でもある。だから本題材を通して…のように育てたい。
というやつです。

ビフォーアフターで言うと、ビフォーの部分ですか。
研究のスタイルで言うと「仮説」という事になるのかな?

教師の研究大会と呼ばれるものを開催するときに「教師観」なんてものが書かれるようになったら凄いだろうなあ。ドッカーンと大爆発しちゃいそうな気分ですな。
本研究会では、特に図工美術教師をこのように捉え、全国的にもこういう現状が蔓延している状況を打破する目的で開催されました。色々タイプがある中で特に、このような傾向の授業もどきに対して強い問題意識を持ち、ここを焦点化する研究会としたい。…なんていう宣言で開会されたらもうたまりませんな。

「私はこんな授業をしました」「この地域ではこんな取り組みをしています」というような自己主張の羅列で賑やかなのも良いけれど、
「現状の教師がこうだから、これから紹介する実践をネタに話し合い、こういう方向で一緒に勉強しませんか」
と言う風に、実践発表を目的とせず、教師成長の手段にしちゃうのですね。
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美術教育の現状を、作品審査会からどのように「想定」できるか書こうと思ったら、文章が長くなってきたので次回に回しますね。
posted by kazyhazy at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 切り口 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月05日

授業改善推進のために思うこと(1)

この夏も各地で活発に研究会が催され、
授業改善をはじめとする様々な領域で成果があったことだろうと思う。

そのような場で、今でも
「私は、授業でこんな作品を作らせました
なんていう実践が発表されることもあるのですが、
このブログをお読みの方々は
「そんなんではダメだろう」
とご理解いただいていると思う。

また、授業研で
「この材料より、あれを使わせる方が良かったのじゃないか」
「この生徒の作品は、その色をもっとこんな風に塗っていれば上手だったのに」

みたいな教材論に走ってしまったときも
「ダメだろう」と考える。

なぜダメなのか。

それは生徒(児童)不在の議論になっているから。
あるいは、軸を生徒の「学び」に据えていない本末転倒の協議だから…。

この理屈を各地の研究大会に当てはめてみる。

この夏に3つの研究大会に参加したが、3回とも壇上から参加者を見渡すような立場にいたからそう思うのかも知れないが、美術教師といえども研究会に学びに来ている限り「この場では生徒だ」と。

生徒不在の議論や「学び」を軸にしない授業研が不毛なのと同様に
美術教師の姿をとらえ、教師の学びをデザインしないと研究会も不毛なモノとなるだろう。

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そう言う意味では、学び研(秋田大会)は慧眼だったと思う。
フォーラムのテーマの中に「教師の学び」という言葉が入り、このブログの記事をつかって「良薬は口に苦し」的な話をして欲しいと要請があったときは
「やっとそういうニーズが生まれたか」と思ったものだった。

美術教師が何に困っているのかを知ることは、
「時数が少なくて…」「学校の多忙化で…」「担当生徒数が多すぎて…」という
本人が気づいていて言葉に出来るようなことでは無いと思う。

若い頃の自分を振り返って、
いつ何がきっかけで「作品主義」から脱却したのか。
いつ何がきっかけで「ねらい」に照らして、授業の要素に整合性を持たせるようになったのか
いつ何がきっかけで「生徒の学び」主体の授業に切り替わったのか…
などをさらけ出しながら

研修を受けに来た目の前の美術教師の「本人さえ気づいていない部分」はどこなのか…に周囲が先に気づくことなのかなと思う。
研究会で「子ども」の事が語られるのは大いに結構だと思う。
けど、図工美術に携わる者が今どういう現状になっているのかという「想定」は必要だとおもう。
posted by kazyhazy at 14:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 切り口 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

いつも心に切り口を(17)おまけ

学び研:秋田大会で私が話題提供した話は前回までで紹介しました。
今日は、その後の意見交流での話です。

プレゼンを使った発表が終わった後のことなのですが
結構あちらこちらのサイトやブログで取り上げられていますので紹介します。

話題提供の後、色々な意見が出て話は尽きなかったのですが、
それぞれの意見に対して「応酬するように!」と言われていたので
その後も話をさせていただきました。

ある先生が、授業後に作品を評価しているときの苦労を発表されました。
作品を評価している・・・という時点で、すでに言葉が間違ってるんですが
展覧会に出せるような出来の良い作品に良い成績を付けるかどうか悩んでいる・・・・みたいな話だったように記憶していますが、今となってはよくわかりません。
色々な苦労や悩みが混在していたような気がします。

混在しているなら分けて考えた方が良いです。
私は基本的に、「物事は単純な方が良い」と思うタチです。

そこで
「作品の審査などでは、その展覧会の意義に照らして作品をセレクトします。
 けど評価では授業のねらいに照らして生徒の学びを見ます。
 2つは全く別物なのに両方を同時におこなうなんて、高度すぎて困難過ぎます」

・・・・という様なことを言ったのだと記憶しています。
(どうです?単純でしょ?根が単純なんです)

展覧会の評価と授業の評価の話、すっきりしました!(by 森實t)

というコメントが以前に入っていましたが、これはそう言ういきさつがあったのです。

これまでここで紹介した
■削るか残すか
■骨か肉か
なんかも、考えてみれば単純ですよね。

「切り口」ってのは、その角度で切ることによって
単純な物に置き換えることが出来る物・・・なんですよね。
単純化することによって問題点が浮き彫りになったり別の角度から考え直すことが出来るんですよね。(たぶん)

posted by kazyhazy at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 切り口 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月28日

いつも心に切り口を(16)秋田編8

作り話を用意した・・・という所まででしたね。

デザイン領域をやった・・・というジャンルの事でもなく
遠近法を教えた・・・という技法の事でもなく
生徒が何を学んだか」について一段だけ深く考察すると
(大した深さではないですよ)
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普段、見えている物体に対して自分たちは、パースによって形状を認識して
光源から生まれる明暗の階調によって立体感を認識している・・・ということを学ぶことが出来ます。

自分が世界をどのように見ているのかを模式的に学ぶことが出来るというわけです。
実際、授業の中で「自分たちは、このようにして物を見ていたのか」と気づく子も少なくありません。(そう言う意図、ねらいが教師の側に無いとだめですが)

(まあこれは作り話ですから)、架空のA先生が、このような生徒の学びがあることに気づいたとしましょう。ここまで考えたA先生はデッサンにも思考をめぐらせます。
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絵画領域・・・というようなカテゴリーでもないし
デッサンを教えた・・・みたいなテクニックの話でもない。
先ほどと同様に「生徒の学び」に沿って考えたA先生は気づきました。

「デッサンでもパースで形状を捉えて・・・明暗を鉛筆の濃淡で表現している・・・同じじゃん」・・・と。

授業でアレをやった・・・コレを作った・・・ではダメなんだ。
生徒が何を学んだか、教師が何を意図したか・・・を語り合わないとダメなんだ、という結論に持って行くためのマンガのようにベタなストーリーです。

学びの考察が模式的で、(上野先生の概念図に比べると)単純化されているので、美術の味わいや感動のような物がスッポリ抜け落ちているのが、作り話ならでは。

まあ、話を分かり易くするため・・・とお許しいただきたいです。
posted by kazyhazy at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 切り口 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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