「美術科ゆえの誤解」というのを紐解きながら補足していければと思います。
まず私は、
題材の投げかけによって、生徒が多種多様な発想を生み出し、主題を生成していくことが素晴らしいと感じているし、素材との格闘で試行錯誤しながら追及していく姿を表現の授業の中で見ることができれば嬉しいと感じます。
また、対話による鑑賞も「ひとつの到達点」と考えていて、これが「学び合い」の理想的な姿だと思っていたフシがあります。
「学び合い」には共有の課題とジャンプの課題がありますが、最初に作品をじっくり見て「何が見えたか」を発表しあって情報共有するところなどは、文字通り共有の課題と言えるし、当初は本人さえ気づいていなかったような深い解釈が後半になって登場するところなんかはジャンプの課題のように見えます。
つまり、表現にしろ鑑賞にしろ「美術の授業が良い状態になったとき」が「学び合いがうまくいった状態」の手本だと考え、「他教科も美術を見習えよ!(笑)」なんて不遜なことも無意識に思っていたかもしれないのです。

私たちは質の高い対話を生み出すために「ふさわしい作品を選定」したり、「発問を投げかけ」たり、うなずいたり、繰り返したり、まとめたり、広げたり、投げ返したり、根拠を尋ねたりするわけですが・・・
ここで私はすでに間違えていて、「質の高い対話」が目的になっていて「そのために様々な手段を講じている」自分に気づくわけです。
そして、あれこれと策を弄する自分の発想が、いつまでたっても教師主体であることに愕然とするのです(笑)
昔の一方的な講義調の授業に比べれば、ファシリテーションの考え方は一歩進んだやり方と言えるので、そういう変化には肯定的だったのですが、この一年間で「学び合い」の研究で得られた知見のピースが、ところどころ自分のパズルにハマらなくなってきたという訳なのです。
例えば、2つまえの記事に「わからなかった時に『わからない』と生徒が教室ではっきりと言えるのならそれは素晴らしいこと。それは学校が変わり、授業が楽しくなる兆しである。」という講話の一部を紹介しましたが、対話による鑑賞で生徒が「わからない」と言ってあちこちの友達に訊きに回るという姿はあまり想像できないのではないでしょうか。
そういう風に「学び合いの授業」のイメージがちょっとズレてることに(今更ながら)気づいたという訳なんです。