昨日のエントリーでは校内研(学校研究)全般での仮説を設定することの問題点について言及しました。
では「学び合い(学びの共同体)」ではどうなるのかと言うと「なお一層問題がある」と言わざるを得ません。
「ウチの学校は学び合いをやってないので関係ないもん」・・・とおっしゃる方が居たら、それは間違いです。このブログのほとんどの読者が美術教師なのだからなおさらです。
対話による鑑賞をやっておられる先生方はお気づきだと思うのですが、「対話」している時点でもう学び合っていますよね。
鎌倉幕府の設立は何年ですか?みたいなひとつの正解を当てるだけの発問ではなく、
「君は何に気づいたのか」
「どう思ったのか」
「なぜそう感じたのか」
「彼はこう言っているけど、この意見に対して他の人はどう思っているのか」
・・・というオープンクエスチョンで授業が進み、生徒によって、クラスによって感じ方や解釈が変わっていくことを受容しながら、授業自体が生み出されていくのですから、「学び合い」とは根っこが同じです。
当然、表現の授業でも「全員が靴をデッサンしなさい」みたいな授業ではなく、作りたいもののイメージを主題化させていくような「まっとうな」表現の授業をするなら、生徒の多様なテーマや試行錯誤を受容しながら進めるところで根っこは同じです。

まだ「学び合い」の実践や研究をされていない学校でも、次期学習指導要領ではアクティブラーニングをはじめとした「学び方」「いかに学ぶか」について言及されるはずですから、「関係ない」なんて言ってられないことになるでしょう。
さて話を戻して、
仮説が馴染むのかどうかを確かめるために対話による鑑賞でわざと仮説を作ってみますね。
「教材にピカソのゲルニカを選んで鑑賞の授業をすれば、生徒たちは戦争の悲惨さや悲しみに気づくだろう」
どうです? 気持ち悪いでしょう。
「○○の作品を鑑賞すれば、生徒たちはきっとこういう意見を言えるようになるだろう」・・・というパターンに当てはめている時点で鑑賞する意味があるのかどうかさえ分からなくなりますよね。
検証するしないに関わらず、仮説を設定すること自体に無理があることが分かると思います。
フェイスブックに書かれる方が多くて、最近はブログへのコメント入力がめっきり減りました。
さて、80パーセント以上の美術の授業が、一方的な「絵の描き方を教える授業」みたいな感じで進められている印象を持っていますので、その管理職だけでなく、われわれ美術教師もまだまだ頑張らねばなりませんね。