その時にも出ていた話題なので、以前から気になっていたことを書く気になりました。
それは、いまだに「対話型鑑賞」という言葉が頻繁に使われていると言うことです。
まるで、いろいろな鑑賞のやり方の中で、ひとつのジャンルを確立した特殊なやり方みたいです。・・・・まあ、使われている場面はおおむね肯定的なシーンなので、それは悪くないです。
「研究会を開きます!対話型鑑賞を取り上げます」とか
「鑑賞の授業をしました。対話型でやったらとてもうまくいきました」・・・という感じ。
別の言葉に置き換えてみましょうか。
「研究会を開きます!酒井式描画法を取り上げます。」とか
「風景画の授業をしました。酒井式でやったらとてもうまくいきました」・・・だったらどうでしょう?
あれれれ?ちょっと待てよ!という思いに駆られた人も多いのじゃないですか?
「○○型」・・・というのは「○○式」と同じで、手段の方に重きを置いた言葉です。
対話による鑑賞をちゃんと解っている人が、つい短く「対話型」と言ってしまった・・・という場合が多いということは知っているのですが、それでもその言葉を聞いてしまう人や読んでしまう人がいる限り弊害は否めません。
「へぇ〜そういう新しいやり方があるんだぁ」と言う風に、方法論的に言葉が一人歩きしてしまうからです。
『学びから遊離した形式だけの授業ほど、生徒の学びを妨げるものはない。』と戒めて、日夜、教育研究に望みだいものです。
そう言っている私が、すでに形式に捕らわれているかも……ドキッ!